〈あとがき〉が妙にカッコイイ学術書4冊【2019.3.31追記】
学術書の〈あとがき〉は個人史である*1。ここに来るまで書き手は学術的ルール一般に則り、禁欲的に一冊の書物を記述してきた。しかし、〈あとがき〉にルールは存在しない。誰も〈あとがき〉の書き方は指導されない。慣習的に似通った内容にはなるが、それでも、著者個人の性格が垣間見える。ここでは、私が妙にカッコイイと思った〈あとがき〉を挙げてゆく。
1.
『刑務所処遇の社会学』
平井秀幸
冗長な本とともに差し出される冗長なあとがきほど、興ざめなものはないと思う。
調査・執筆をめぐる裏話や、ひそかに抱いている筆者の思いも、ここに記す必要もないだろう。それらは本文にこそ記されるべきだと思うし、本書においては必要な限り実際にそうしてきたつもりだ。
これを読んだとき、素直にカッコ良すぎるでしょ、と感じた。とくに一文目の「冗長な本とともに差し出される冗長なあとがきほど、興ざめなものはないと思う」は強烈であった。不遜にも、誰をdisっているのか勘ぐりたくなる文章であったが。
ただ、上の引用箇所だけでも「思う」を2回使用してるところをみると、この人の良さを感じる。学術的にも誠実で、おそらく実際も誠実で良い人なんだろうなと想像する。
それはそうと、この本は400頁弱ながら、凝縮さと洗練さを兼ね備えた内容であった。問い、研究の意義、分析枠組み・方法、内容、どれをとっても学術的水準が高かった。あと、読んでいてただただ知的興奮を味わえた。いつかこの本の感想も書きたいと思うが、〈あとがき〉のように、無駄のない、学術書として〈美しい〉本であった。
2.
『近代・戦争・国家』
最後に、本書は繰返しの箇所が多いと感じる方のために、少々弁じる。理由は二つ。一つは意識的なもので、不遜極まりないが、研究者が必ずしも本が読めるとは限らないということを、博士論文を本にしたときに感じたからである。どうしてこういう理解になるのか、書いた本人が理解に苦しむものまである。受け取り方は自由だとしても、まずは本をそのままに読むということがいかに難しいことなのかを悟った(学生の授業の理解の偏頗さというのもその例だが)。というより、数式や技法の習得に時間がとられて、本を読むということの訓練や習慣が足りないのかもしれない。そのとき抜群の読解を提示されて本人すら驚き、逆啓発された研究者はいまでは同僚である。繰返しは一種の意識的なダ・カーポ形式の採用であり、本書全体がソナタ形式なのだとお考えいただきたい*2
こちらは打って変わって、「冗長な文章とともに冗長なあとがき」である*3
「研究者が必ずしも本が読めるとは限らない」。ここで、そんなこと言っちゃう?マジで!と思わず言ってしまう文章である。ただ私はこういう人も好きなので、内容も含めてとても興味深く読んだ。〈あとがき〉もさることながら、〈注釈〉も教養のオンパレードである。引用の最後のほうを読んでわかるとおり、クラシックの知識もガンガン開陳してくる。
昔、勝手にイメージしていた「大学教授」を体現しているような人である。決して友だちにはなりたくないが*4、このような書き手が学問の世界に存在することに安堵する。
3.
『成熟と近代』
デイヴィット・オーウェン
ここで私は、この本の執筆中、私の研究とよき生活状態を支えてくれた人すべての名前を挙げることはできない。そこで、これから実際にお名前を挙げる方々によって、ここでは言及できないすべての人々にたいする私の感謝の気持ちに代えさせていただきたいと思う。
これは厳密な意味で〈あとがき〉ではなく、〈謝辞〉ではあるが、取り上げることにした。理由はわかると思うが、二つ目の文章の前後関係が矛盾しているように思えて、一瞬理解できなかった。読んでいてフリーズしたのだ。結局これって、言い換えれば「ごめん、忘れたヤツもいるけど、許してね!」を丁寧に表現したにすぎないだろう*5。
のっけからこのような文章を書けるだけあって、内容も近代批判者としてのニーチェ・ウェーバー・フーコーを繋げて論じていて、勉強になるところが多かった。
4.
『力学の誕生: オイラーと「力」概念の革新』
有賀暢迪
校正作業を一通り終えてみて、「ようやく義務を果たした」と感じるとともに、「結局これだけしかできなかった」という思いが胸のうちを行き来している。
十八世紀の力学と出会ってから今日までの十五年間に、研究者であれ親族であれ、本書が出版されたならきっと喜んでくれたであろう何人もの人たちがこの世を去った。それでも私は、前に進まなくてはならないーー期待してくれる人たちがいる限り。おそらく、私自身はこれ以上、十八世紀の力学に関して新しい研究をすることはないだろう。願わくは、後に来る人たちが本書を一つの手掛かりとして、この重要かつ魅力的なテーマと取り組み、そして楽しんでくれたらと思う。義務は果たした。結局これだけしかできなかった。それでも、後悔はしていない。
あとがきの最初の段落と最後の段落を上記では引用した。美しいあとがきである*6。ここまで言い切れることが何よりも尊い。この方は「ようやく義務は果たした」と語り、「結局これだけしかできなかった」とも述べる。おそらく専門家がこの本を評すれば、高い評価になるだろう。そんな人が「結局これだけしかできなかった」という語るとき、その言葉にはどれくらいの重みがあるのだろうか。私はそれを理解できる位置にはいない。ただただそれが残念である。
しかし、最後の一文である「それでも、後悔はしていない。」は使い古された言葉であり、カッコつけた表現ではあるが、本当にそう思ったから、そのように書いたのだろう。この言葉を書き切れるということ自体、生き様として美しく感じる*7