濃密な学びが得られる社会学の本 vol. 1

仁平典宏『「ボランティア」の誕生と終焉』は生み出された瞬間に〈古典〉となった本である*1。用語の選定も含めてゴリゴリの学術的文献であり、その選定には著者の選好も垣間見える。たしかにそれは学術的系譜に連なりつつも、どこか新しさを感じさせるものがあった。つまりそれは新しい世代の誕生である。

 

誰にでも薦められる本ではない。鈍器のように重く枕の代わりになるので*2、その意味では一家に一冊的なオススメはできるが、内容は人を選ぶかもしれない。

 

しかしながら私は、この本を通じて知的興奮を味わっていた。この知的興奮こそが学問の醍醐味であると思う。「ボランティア的なもの」の変容過程を明治期から現代(2000年代)までという長期スパンで眺め、それを〈贈与のパラドックス〉という鍵概念で分析することによって、その歴史的過程を提示する。表面的なものでではなく、本物の〈社会学〉を味わいたい人にはオススメできる*3。あとボランティアは「偽善」じゃないのというシニカルな視点を有している人も楽しく読めるだろう*4

 

本書の面白さは読めばすぐにわかるが、あえて一つだけ引用する形で、その一端を紹介したい*5ストリートチルドレンの話で、そのボランティアをする本人の前で他者が「自己満足じゃないの」という応答がなされる場面である。

 

 ところが、現実によくあるタイプは、「君たち、ボランティア活動をやっても仕方ないよ。やはり、制度が問題。世の中を変えないといかん」とか言うわけ。そんな時は「なるほど。あなたの言うことはごもっともだ」と、一応は僕も言うわけ。そして聞くんよ。「そしたら、あんたは、その制度を変えるために、具体的に何をしてはるんですか」と。そしたら、何もしていない。しかも、そういう人が何をしてるかというと、喫茶店でコーヒー飲んでるんですわ。(笑い)

……僕は、どちらの形態でも良いと思うねん。ともかく本気になって、どちらをやったら良い。徹底してね。本当に本気でやったら、どちらであっても綺麗事ではすまなくなる(仁平 2011: 432)。

 

上記の対談を引用後、仁平は以下のように解釈/議論をする。

 

彼はいつまでもコーヒーを飲んでいるだけかもしれない。だが、少なくとも彼は「ボランティアを否定する」という言語行為を行った。媒介項を否定した瞬間、彼は、ストリートチルドレンと、ある形で向き合うことになる。それでは代わりに何をするか? それとも何もしなくてもよいのか? もししなくてもよいならその根拠は何か?ーーこのような問いが、彼の選択/行為の結果として開かれる。……自らの行為でボランティアを否定することを通して、他者への応答責任が転移したのだ(仁平 2011: 432-3)。

 

先に引用した対談は一瞬よくある会話にしか過ぎないが、ここに検討が入ると上記のような分析に変化する。これが「分析」であり「研究」というものなのだろう。このような分析が至るところにあるのだから、驚嘆するし、悔しいという言葉さえ吐かせてもらえない。議論の「根拠」はどこにあるのかを常に考えているから、このような分析がサクッとできてしまうのだろう*6

 

仁平における一つ目のピークはこの本の出版をもって終わった*7。次はどのようなピークを迎えるのだろうか。期待しかない。

 

 

              『「ボランティア」の誕生と終焉』

                  仁平典宏

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「ボランティア」の誕生と終焉

*1:「私調べ」だけどね。

*2:パッと自分の本棚を見まわすかぎり、仁平の本に対抗できる書籍は、W・キムリッカ『現代政治理論』やA・ギデンズ『社会学』、立岩真也『ALS 不動の身体と息する機械』など、名だたる方々である。

*3:知的体力(?)みたいなものがあるとしたら、それがないと辛いかもしれない。言い換えれば、社会学的基礎知識がないと読みこなせない。とくに序章は禁欲的に書いたのか、前提知識がないと理解しきれないと思うので、ちょっとぐらい理解できなくても読み飛ばしていい。しかしながら、その序章こそが仁平の葛藤が垣間見える興味深いところでもある。

*4:もっと言えば、その偽善じゃないのという視点に対して、どのような回避を慈善活動家たちがしていたのか当時の社会的コンテクストも加味しながら述べているし、民主化要件としての①国家に対する社会の自律と②国家による社会権の保障を両立させる回路をめぐる議論も勉強になる。

*5:これから引用する部分は本書で私が一番興味深かったところではない。

*6:サクッとかどうかは知らないけど。

*7:これはディスってるのではなく、一つの区切りとしての意味だよ。

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